メキシコシティは雨の匂い、あるいは文学。

メキシコシティは毎日決まった時間に雨が降る、と言われます。自分はどうして文学を勉強しているんだろう、そんなことを考えながら1年間を過ごしました。

 

僕が1年間過ごしたメキシコシティは毎日決まった時間に雨が降る、と言われます。

 

都市の空気汚染がかなり深刻な状態であるのは有名ですが、雨は空気中の塵を洗い流してくれるので、思い切り息を吸ってみたり吐いてみたりしてみると良いでしょう。息を吸った途端、雨の匂いがするのを感じるはずです。雨が降っているから当然だろう、とあなたは言うかもません。しかし、雨があがっても、岩に横断歩道に車のバンパーに日常のあらゆるものに雨の匂いが残っているのです。翌日、目を覚ましたあなたは都市がまだ昨日の雨の匂いがすることに気がつくでしょう。そしてまた次の雨が降るのです。

 

 

僕は一応、文学を勉強しに留学しましたが大したことはしてません。しかし、メキシコで自分の文学観が大きく変わったことは間違いないです。

 

僕が知り合った多くの文学部の若者は文学を実践していました。

詩を書くもの、短編小説を賞に応募するもの、演劇科の学生に戯曲を書くもの。勉強とは並行して創作する学生が大半でした。

 

文学部と他大学の理工学部をダブルスクールで通っていたある女の子は、ウェブ上でコラムを書いていて、顕微鏡から見える葉の細胞がいかに美しいか、詩で表現していたのが印象的です。

 

ある誕生日パーティーでは突然参加者が壇上にあがり自作の詩の朗読をはじめ、続いてまた別の人が自作の詩の朗読をはじめたことがありました。細かい内容は覚えてませんが、愛の詩をうたっていて誕生日とは特に関係ありませんでした。

 

学期末終わりの宴を大学の広場で学生の集団がやっていました。学生たちは私のことを見つけると手招きしました。彼らは、宴もたけなわという感じで、マリファナを回し喫みしながらHAIKUを作りはじめました。その時でした。アホほど酒を飲んでいた彼らのうちの1人が私の首根っこを掴んで私に分厚い一冊の本を見せました。「これをどんな時でも持ち歩いてるんだ」と彼は言いました。本のタイトルは『現代詩』。彼は器用にページめくると、俳句が載ったところを指差して私に笑顔を向けました。

 

「俳句は僕の創作を刺激するんだ。読めば読むほど...。でも、俳句には...季語っていうものが...あるんだよね?…いいか、メキシコには…季節なんか…ない。雨か雨じゃ...ないかだ」

 

と彼が言ったのを覚えています。呂律も回らず目の焦点も定まっていない彼の言葉は今も僕の中にあります。僕の中で都市が雨の匂いと繋がっているのは、彼の言葉によるところが大きいのかもしれません。素敵な学生でした。

 

 

自分が今勉強している学問分野は自分人生にとってどのような意味を持つのか考えることは大切だと思います。文学を実践していた学生たちは熱心に教室で勉強していました。自分はどうして文学を勉強しているんだろう、そんなことを考えながら僕は1年間を過ごしました。たくさん本を読みました。いろんな人に出会いました。僕にとって文学ってなんなんだろう。僕は文学で何がしたいんだろう。帰りの飛行機に乗る時、僕の中ではもう1つの答えが出来ていました。

 

 

メキシコシティを語るのは難しいです。おそらくメキシコシティが大嫌いな人もいるでしょう。ただ、行けばあなたの何かを大きく変えてくれることは間違いないです。そしてそれはあなたにとって大切なものであるはずです。

 

メキシコの詩人オクタビオ・パスが松尾芭蕉の『奥の細道』を訳したのは有名ですが、最後に、そのうちの一句を載せて終わりたいと思います。

 

 

閑さや 岩に染み入る 蝉の声

 Tregua de vidrio: el son de cigarra taladra rocas

 

ポイントは「閑さや」を"calma"(=平穏、静けさ)や"tranquilidad"(=静寂、平静)といった名詞を使わなかったところです。手元の辞書には

 

tregua ①休戦、戦闘停止②ひと休み

vidrio ①ガラス②窓ガラス

 

とあります。《Tregua de vidrio》は直訳すると「窓ガラスのひと休み」です。もしくは「窓ガラスの休戦」。どうでしょうか。「閑さや」をこう訳すんですね。僕はこの訳に出会った時、素晴らしすぎて言葉も出ませんでした。つまりこういうことです。ガタガタ!と窓ガラスが音をたてて振動するんですね。嵐がやってきたか少なくとも風かなにかのせいでしょう。ガタガタ!ガタガタ!と。部屋の中にいる僕たちは音が大きくなるにつれて不安になるでしょう。ガタガタ!ガタガタ!すると、突然窓ガラスの振動が止まります。そして訪れる「閑けさ」。「閑さや」を表現するためのパスによる詩的表現です。「静けさ」ではなく「閑けさ」であること、間投詞「や」があることを考えてみてほしいです。

 

 

 

文学は役には立ちませんが、人生を豊かにしてくれます。

 

 

(文・中田弦)